前方後円墳の分布は4世紀後葉前まで、主に畿内?瀬戸内海沿岸(吉備など)?北九州(筑紫など)に集中していた。そのため、ヤマト王権の支配権もそれらの地域を中心としていたと考えられる。しかし4世紀後葉になると、東北(仙台平野・会津地方など)から南九州(日向・大隅など)まで前方後円墳の分布が急速に拡大しており、ヤマト王権の支配権がそれらの地域へ伸展していったことの表れだとする見方がある。
この時期と前後して4世紀半ば(350年頃)からヤマト王権(倭国)は朝鮮半島との交易を開始した。当時の倭国には鉄鉱の産出がなく、朝鮮半島から鉄原料を輸入した。朝鮮半島の任那(加羅)は鉄の産地だった。輸入した鉄資源をもとに鍬・鋤などの農業用鉄製品が製造され、農業技術の革新・開墾の活発化などが起こり4世紀後葉から5世紀にかけて倭国の農業生産力は大きく向上した。これにより、経済力をつけたヤマト王権は鉄資源を求めて朝鮮半島へ経済的・軍事的に進出し始めた。ヤマト王権(倭国)は百済と連携して朝鮮半島南部への出兵を頻繁に展開し、このことは高句麗が遺した広開土王碑にも記述されている。また、朝鮮半島南部を中心にいくつもの倭独特の前方後円墳が発見されており、中国の史書からも倭への朝鮮半島南部の支配権を認める記述があることから朝鮮半島南部(任那)は大和王権が統治していた地と有力視されている。ヤマト王権と朝鮮半島諸国との交易が活発化した背景には、北方の高句麗から圧迫を受けつつあった百済が対抗のために近隣諸国(新羅・加羅諸国)と連携を強めていたことが挙げられる。この結果、ヤマト王権(倭国)と朝鮮半島諸国との関係・通交が活発化したのである。ヤマト王権が東北から南九州まで全国的に展開したことは、この朝鮮半島諸国との活発な関係・通交が密接に関係していると考えられている。
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4世紀後葉より以前ヤマトの王の墓はヤマト(奈良盆地)に営まれていたが、それ以降は河内平野に築かれることが多くなった。このことから王権の基盤がヤマトから河内へ移動したとする説、王権の基盤はヤマトだが海外通交の窓口となる河内を開発したとする説、それまでの王統が断絶して新王統が成立したとする説(河内王朝説)、などが提出されている。